用語集

陶器製造所沿革調  明治16年作成。明治十年代半ばの頃の現佐賀・長崎両県内における陶磁器の概況及び沿革をまとめた調書。
 長崎県立長崎図書館所蔵の「明治十三年ヨリ同十六年迄、勧業課商工務掛事務簿(かんぎょうかしょうこうむかかりじむぼ)」の内にある。
松浦郡一ノ瀬字皿山  現伊万里市大川内町にあたる。現在も窯業が盛んな地域である。
職工桝谷金右エ門  有田・伊万里地方の職人であったことは間違いないと思われるが、それ以上は不詳である。
 略系としては、桝谷金右エ門―甚右エ門―與(与)兵衛―與(与)右エ門―與(与)七 。
肥前陶磁史考  中島 浩氣(なかじまこうき) 氏によって昭和11年にまとめられた肥前陶磁器の歴史研究書。
 発行元は肥前陶磁史考刊行会となっている。
杵島郡鳴瀬  現武雄市橘町永島付近にあたる。
邑主鍋島山城守  江戸期、この地方は白石邑と呼ばれ、その邑主が鍋島山城守。鍋島山城守とは、小城・鹿島・蓮池の三支藩(さんしはん)に次ぐ御親類家筆頭(ごしんるいけひっとう)にあたる家柄。邑祖は鍋島直弘公で、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の八男。
山方役深堀丹作  白石邑には、鍋島山城守の家臣団である白石武士団が居住し、自治・警護にあたっていた。幕末の「役割帳」という記録には家政組織として、当役・勘定所・御政雑方・御用人・御政務所・代官など47の役職が記されている。
 山方役(やまかたやく)という役職も記されており、主に山手もしくは街道筋の警護などを担う役割のようである。
陶工藤崎百十  伊万里鍋島藩窯の陶工。
 白石焼の陶工として迎えられた後は、多くの業績を残し、当時減益傾向にあった製陶業を再浮揚させた、いわゆる中興の祖(ちゅうこうのそ)と位置付けられる人物。
五穀さん  諸説あるものの、地元で取れる陶石の呼称である可能性が高い。
 この地方には花崗岩が風化・白色化した層が多く存在する。
 これを有田泉山の陶石が使用できなかった時期に天草陶石と混ぜて利用したことは十分想定できる。
天草陶石  天草下島で採掘される粘土性の鉱石。陶磁器の原料として古くから利用されており、日本で産出される磁器原料の8割を占める。
 天草陶土、天草石などとも呼ばれている。
白罅焼  作品を成形後、素地に白化粧土をかけて白い下地を作る。
 これに呉須(ごす)(青色顔料)で文様を描き、透明釉をかけて本焼きする。
 そうすると素地と白化粧土の収縮率の違いから釉に大きな貫入が幾筋も入る。
 これが肥前で「白罅焼」「ひび焼」と呼ばれる技法である。
 磁器の白く硬い肌合いよりも、柔らかく土っぽい印象が強いため、わび・さびの茶道具として作り始めたものと思われる。
曲渕和右エ門  肥前陶磁史考によれば「御蔵方曲渕和右エ門は、自ら陶窯を築き、窃に有田の工人を招きて又白罅焼を製造した」とある。
 御蔵方という役職から陶工というよりむしろ役人に近い存在、もしくは役人と製陶業を繋ぐ存在であったことが想定される。
仕組所  天保十五年(1844)以降、販路が減衰し、安政末年(1859)に至って非常に逼迫したため、再建のため元治元年(1864)に設けられたのが仕組所である。
 これは官民一体となって製陶業の再浮上を模索するために設けられた組織であり、これにより大掛かりなテコ入れが始まる。
臼井芳造(走波)  仕組所の働きかけによって招聘された京都京焼の名工。
 元神官の家系に生まれ、芳造の他に如雲、芳雪の号がある。
 陶工の技以外に、草花を描いたり、永楽風の彩金術に長けていたと伝えられる。
 彼の来山により京焼の技法が吹き込まれ、白石焼が新たな段階への歩を進めたのは間違いない。
 またこの幕末期〜明治初期は他の地方からも多くの陶工を迎え、技術革新を図っている。
協力会社  明治維新後、白石武士団も解体されたが、旧士族達は禄公債(ろくこうさい)(当時の退職金のようなもの)を元手に、協力会社と呼ばれる工場制による製陶事業に乗り出した。
 この協力会社の工場は、現在の窯元の通りとは離れた場所にあったとされ、鳥栖市境の「五反三歩の堤」付近にあったと伝えられている。
鉄道茶瓶  明治期から昭和40年前後くらいまで、鉄道の駅弁につきものであったお茶が入った陶器製の瓶。中身のお茶が満杯に入っているかわからないという不満を受け、一時期当時の鉄道法により使用を禁止され、かわりに中身が見えるガラス製を使うよう指示されたが、割れやすいということと見た目の悪さから再び茶瓶が使われるようになった。
 全国でも主力産地は数ヶ所しかなく、白石焼は九州内で唯一の主力産地になっている。
【参考文献】
『古伊万里の見方』vol.1 平成16年 佐賀県立九州陶磁文化館
『北茂安町史』 平成17年 北茂安町
名称 成富兵庫茂安公保存会
電話番号 090-2506-2785