白石焼と走波焼の歴史

 ○文献にみる白石焼の起源は2説あります。
 『陶器製造所沿革調(とうきせいぞうじょえんかくしらべ)(明治16年)』では、「享保七年(1722)五月に松浦郡一ノ瀬字皿山(現伊万里市大川内町)の職工桝谷金右エ門(ますやきんうえもん)の一族を移住させ、必需の容器、碗、皿、鉢、徳利等を製造させた」と記しています。
  一方、『肥前陶磁史考(ひぜんとうじしこう)(昭和11年)』では、「宝暦年間(1751-1763)、杵島郡鳴瀬(現武雄市橘町永島)に於いて桝谷金右エ門といへる者、製陶業に失敗し、果ては妻子を連れて中国筋へ上らんとて、途中白壁の近傍なる中原の一旅舎へ投宿した。
 折から人別改めに巡り来し此地の邑主鍋島山城守(なべしまやましろのかみ)の山方役深堀丹作(ふかほりたんさく)の知るところとなり、金右エ門は誘わるるまま白石に来たりて七輪や火消壺などを焼き上げて、久留米地方へ販売することとなった」と記しています。

○その後、金右エ門の四代目与右エ門(ようえもん)の時代の寛政年間(1789-1800)に、「松浦郡大川うち山なる鍋島藩窯の陶工藤崎百十(ふじさきひゃくじゅう)といえる者、子細ありて妻子と共に此地へ来たりしが、百十は「五穀さん(ごこくさん)」という地元の陶石に天草陶石を混ぜて、白磁に似た白罅焼(しろひびやき)を創製した」とされています。
さらに文化三年(1803)には曲渕和右エ門(まがりぶちかずうえもん)が移住し、賑わいをみせたとしています。
○しかし天保十五年(1844)以降、販路が減退し、安政末年(1859)に非常に逼迫したため、元治元年(1864)に「仕組所(しくみしょ)」という組織を設け、慶応二年(1866)三月、京都より京焼の陶工である臼井芳造(うすいよしぞう)(走波)(そうは)を仕組所に雇い入れ、再興を図っています。
 彼やその弟子たちの作品は、白石焼の歴史の中でも異彩を放っていたため「走波焼」と別称されるほどで、現存品は数少ない。

○明治維新後は、旧士族達が協力会社と呼ばれる工場制による製陶業に乗り出し、海外輸出まで手掛けた。 しかし明治期の混乱もあり、明治十四年(1881)以降走波焼は途絶える。 ただし製陶業自体は継続され、明治後期から戦前頃まで土鍋や植木鉢などの日用品を製作した。 国鉄の鉄道茶瓶(てつどうちゃびん)を多く生産したのもこの時代です。
○戦後、昭和40年代頃からは刷毛目や飛鉋などの民陶風の陶器が主流となり、現在に至っています。

【参考文献】
『古伊万里の見方』vol.1 平成16年 佐賀県立九州陶磁文化館
『北茂安町史』 平成17年 北茂安町
名称 成富兵庫茂安公保存会
電話番号 090-2506-2785